Satoshi Haradaの日記

Satoshi HaradaがAgileに関することを書き残していく日記

書籍『自分のこころからよむ臨床心理学入門』読書メモ “対人不安”

私は心理学専攻の社会人大学生です。

臨床心理学の指定テキストである『自分のこころからよむ臨床心理学入門』という書籍が大変興味深い内容なので、ブログに読書メモとして残していこうと思います。ご興味持っていただけた方は、ぜひ書籍を読んでいただけたらと思います。

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今回は第2章「対人不安」の読書メモです。

2.対人不安

対人不安とは?

不安は誰もが経験するのだが、その中でも人との関係についての不安を「対人不安」と呼ぶ。

毛利が作成した「対人恐怖症状尺度」によると、以下のような恐怖がある。(書籍では対人不安度を計るテストもあるので、ご興味ある方は書籍を参照してください)

  • 他者視線恐怖: 他人からの視線が気になってしまい、恥ずかしく感じたり、緊張すること
  • 赤面恐怖:人前に出ると自分の顔が赤くなってしまうことを気にすること
  • 表情恐怖: 人と話しているときに、自分の表情がこわばって不自然な表情になることを気にすること
  • 自己視線恐怖: 自分の視線が鋭いのではないか、目つきが悪いのではないかと気にすること
  • 自己臭恐怖: 自分の臭いによって、相手に迷惑をかけているのではないかと気にすること

広義の対人不安と狭義の対人不安

対人不安には、弱いものから強いものまで、さまざまな態度がある。大きく以下の3つで、狭義の対人不安→対人恐怖→思春期妄想症の順に症状は重くなる。

  • 狭義の対人不安: 対人緊張、あがり(シャイネス)、人見知り
  • 対人恐怖: 対人不安よりも悩みの程度が強まり、生活に支障が出るようになったものを対人恐怖と呼ぶ。他者視線恐怖、赤面恐怖、表情恐怖、自己視線恐怖、社会恐怖が該当
  • 思春期妄想症: 対人恐怖よりも重い症状を思春期妄想症または重症対人恐怖症と呼ぶ。自己視線恐怖、自己臭恐怖、醜貌恐怖(自分の顔が醜いと固く信じ込み、そのために人から嫌われていると悩む)が該当

DSM-IVにおける社会恐怖の扱い

DSM-IVとは、アメリカ精神医学会が作成した「精神疾患の診断・統計マニュアル」のことで、Diagnostic and Statistical Manual for Mental Disorders の略語である。

DSMは診断基準であり、うつ病や不安障害などさまざまな心理的問題を体系的に分類し、客観的に定義をしたものだ。このような診断基準が整備されたのは比較的最近のことで、それまでは医師が自分なりの基準で精神科の病名をもとに診断していた。しかしそれだと、ある医者からは統合失調症と診断されたのに、別の医者からはうつ病と診断されるようなことがよく起きてしまっていた。そのような状態を受けて、WHOやアメリカ精神医学会では診断基準の統一を図るようになり、DSMが作られることになる。

対人恐怖の一つである社会恐怖も、DSM-IVに診断基準が定義されている。

対人不安に悩む人はどれくらいいるか

15歳においては50%くらい、18歳においては30%以上の人が他者視線恐怖の傾向を持っている。日本では対人恐怖傾向を持つ人はかなり多いのではないかと考えられる。

また、DSM-IVによると、疫学調査では社会恐怖の生涯有病率は3〜13%という結果が得られている。

どうして対人不安はおきるのか

対人不安がおこるしくみは、バスの対人不安理論で説明する。

バスによれば、対人不安がおきるのは人から見られる自己を過剰に意識し、その場を離れたい・人目を避けたいという動機が生じるためだという。

そして、自己意識には公的自己意識と私的自己意識がある。

  • 公的自己意識: この自己意識が高い人は、外出する前に自分の身だしなみを念入りにチェックしたり、自分の容姿に気を配ったり、人前での振る舞いに注意を払っていることが多い
  • 私的自己意識: この自己意識が高い人は、自分がどんな人間であるか理解しようと努めたり、自分を反省してみたりすることが多い

対人不安が生じるときには、公的自己意識の高まりに加えて、不安・不快などの感情や、その場から逃げたい、他者の視線から逃れたいという動機や行動が生じている。

対人不安にはどのようなものがあるか

バスは、対人不安を4に分類した。

  • 当惑(embarrassment): 場そぐわない格好や振る舞いをしたり、人前でうまく行動できなかったりして、赤面や照れ笑いなどの反応をすること
  • (shame): うまくやろうと思ったけれども失敗したり負けたりした場合、自分や周囲の人をがっかりさせてしまった場合、さらには非道徳な行動をした場合に生じる
  • 観衆不安(audience anxiety): 人前でスピーチやパフォーマンスをするときに生じる。緊張、心配、パニック、混乱などの感情が生じ、表情がこわばり、視線が定まらず、顔面蒼白、身震い、声の震え、スピーチ内容を忘れるなど行動がうまく取れなくなる。汗をかく、呼吸が速くなる、血圧が上がる、心臓がドキドキするなど、交感神経系が働いた生理的変化が生じる
  • シャイネス(shyness): 目立つことや経験したことのない場面で生じる。視線を合わせなくなり、他の人から離れようとするなど、コミュニケーションをとろうとしなくなる

日本においては、バスのいう当惑(embarrassment)は「恥」や「照れ」に相当し、バスのいう恥(shame)は「失望」や「深い後悔」に当たると、この者先の著者は述べている。(英語の直訳だと、日本語の意味合いにズレがあるためだと思われる)

対人不安を生じさせるもの

対人不安の原因は大きくふたつあり、「対人場面の特徴」と「他者の行動」。

対人不安がおきやすい対人場面の特徴としては以下のとおり。

  • 集団の大きさ: ふたりきりで話すような場面では対人不安はおきにくく、大勢の前で話すときは対人不安がおきやすい
  • 注視される量: 1対1で話すような場面では視線が一方に偏ることがないので対人不安はおきにくく、壇上から話すような場面では視線を一身に浴びるので対人不安がおきやすい
  • その場の人物の熟知度: よく知っている人なら対人不安はおきにくく、知らない人と話す際は対人不安がおきやすい
  • 場の公式さ: 家族や友人と話すようなインフォーマルな場では対人不安はおきにくく、結婚式など場がフォーマルな場合は対人不安がおきやすい
  • 評価の程度: 他者から評価されるような場面(たとえば、お見合いなど)では対人不安がおきやすい

対人不安の自己呈示理論

シュレンカーとリアリィは、対人不安の自己呈示理論を提唱した。この理論では、他者に特別な印象を与えたいと思っているが、それができるかどうか疑わしく、自分の印象に関連した不満足な対応を他者から受ける可能性があると予想したときに、対人不安が生じるとされている。

たとえば、新商品の社内プレゼンテーションの場で最高の発表をしたいと思っているが、そのような発表ができるかどうか自信がなく、発表が上手くいかないと自分の社内での評価も落ちてしまう可能性がある…といった場面では対人不安が生じる、ということだ。

そしてシュレンカーとリアリティによれば、対人不安が生じるためにはまず、自己についてのある印象を他者に与えたいと願っている必要がある。つまり、対人不安が生じるときは自己を他者に呈示したいという動機があるということだ。

自己呈示の動機づけを高める要因

対人不安が生じるときには、自己を他者に呈示したいという動機があるわけなのだが、そのような自己呈示の動機づけを高める要因には以下のようなものがある。

  1. 公的自己への注目(公的自覚状態): 観衆や自分を評価する人などがその場にいて、自分のふるまいや外見などの公的自己へ注意が向けられている状況
  2. 期待した結果の価値: 他者から評価や他者の反応が、自分にとって重要な意味を持つ場合
  3. 印象を与えたいと思う他者の特徴: 権威がある人、専門家、地位の高い人、異性の仲間、身体的に魅力のある人、社会的影響力が大きい人
  4. 評価的な状況: 人から評価を受ける場面、または評価を受けるだろうと予想される場面
  5. 中心的な自己概念への呈示: 「自分はこうなりたい」という自己概念を印象付けられそうな場面(たとえば、プレゼンテーションを見事に成功させる自分でありたいという自己概念があり、まさに今プレゼンの場でそれが試されようとしている場面)
  6. 共存他者の数: その場にいる他者の数が多いほど、自己呈示の動機づけは高まる
  7. 承認欲求: 人から認めてもらいたいと普段から思っている人ほど、自己呈示の動機づけは高まる
  8. ネガティブな評価への恐れ: ネガティブな評価を恐れる人ほど、自己呈示の動機づけは高まる
主観的確率

対人不安が高まる第2の条件として、主観的確率というものがある。主観的確率とは、演じたい自分を上手く演じることができるかどうか(自己呈示を思っていた通りに上手くできるかどうか)を、自分自身の主観でどれくらい信じることができているかということだ。

そのためにはまず、どのような自分を演じれば良いか(どのような印象が望ましいか)がわかっている必要がある。これがわかっていない状況では、どのような行動をとるべきかわからず、主観的確率は低くなる(つまり、演じたい自分を上手く演じられなくなる)。

また、望ましい印象がわかっていても、今の自分では到底そのような印象は作り出せないと考える場合も、主観的確率は低くなる。

日本とアメリカの対人不安の違い

笠原は青年期という本の中で、対人恐怖の人は「半知り」の人を苦手とすると述べている。「半知り」という言葉は聞きなれない言葉だが、これは実際に対人恐怖の青年が使った言葉だそうだ。

半知りとはつまり、親や兄弟といった親しい人と、顔も名前も知らない他人の、中間の位置付けの人のことです。親や兄弟といった親しい人の前では恐怖はなく、また街中の群衆のような見ず知らずの人たちの中にいても恐怖は感じない。一番苦手なのはその中間の「半知り」の人たちなのだという。笠原の書籍によると、

  • 顔は知ってるのに名前は知らない人が特に苦手
  • 初対面のときはまだよいが、2回目からはダメ
  • 何回も会って親友になってしまえば恐怖なくなる
  • 子どもや老人など年が離れていれば平気だが、同年齢の人が苦手
  • 2人ならよいが、3人でいると不安になりやすい
  • 特定の話題が決まっている場面はよいが、なんとなく雑談する状況は苦手

という特徴が日本の対人不安にはあると論じられている。

このように日本の対人不安の特徴は、アメリカの対人不安を研究したバスの理論とは異なる点がいくつかある。

アメリカの対人不安はバスによると「公式な場面」で「知らない人」が「大勢」いて「評価される」と対人不安を生じさせるとされるが、日本の対人不安は笠原によると「非公式な雑談のような場面」で「少し知っている人」が「3人でいるとき」に対人不安を生じさせる。

日本とアメリカの対人不安の違いが起きる理由は、書籍の中では明示されていない。

だがこれは、アメリカと日本の文化的違いから来ているのかも知らない。アメリカでは大勢の前で自分の意見や主張をプレゼンテーションする機会が多く、そのような場面で特に対人不安を感じやすいということなのかもしれない。

それに対して、日本人がそのようなプレゼンテーションの場面で対人不安を感じにくい、とは言い切れないだろう。それよりも、日本では大勢の前で自分の意見や主張をプレゼンテーションする機会がアメリカよりも少なく(笠原の書籍「青年期」は1977年の出版なので、現在よりもさらにその機会は少なかったのかもしれない)、それよりも3人程度の小グループで「仲間外れになりたくない」という不安感や劣等感から対人不安を感じやすいのかもしれない。

対人恐怖の人はどのようなことに悩んでいるか

対人恐怖の人はどのようなことに悩んでいるのかを調べた永井によると、対人恐怖の人には以下のような悩みがある。

対人場面の行動不調=人とうまく付き合えない悩み
  1. 他者とうちとけられない: 対人関係がぎこちない、仲間の中に溶け込めない、人が大勢いるとうまく会話に入っていけない
  2. 対人恐怖が強い: 人前に出ると緊張する、おどおどしてしまう
  3. 視線がうまく使えない: 人と目が合わせられない、人と話をするときに目線をどこに持っていけばよいのかわからない
関係的自己意識=人から自分がどう思われているか不安という悩み
  1. 人からの評価が気になる: 周囲の人たちから、自分がどう思われているのかが気になり不安になる
  2. 加害的な悩み: 自分が相手に嫌な思いをさせてしまっていると思ってしまう(自分のせいで話がつまらないと思わせているかもしれない、自分の発言が場をしらけさせているかもしれない、など)
  3. 被害的な悩み: 自分のことをみんなが避けているかもしれない、自分の弱点や欠点をみんなが知っているのかもしれないと思ってしまう
内省的自己意識=自分はダメだと思ってしまう悩み
  1. 自己の不安定さと劣等感: 気持ちが安定しておらず、何をするにも自信がなく自分だけが取り残されたような気持ちになる
  2. 自己のコントロールの弱さ: 物事に集中できず、何事も長続きしないという悩み

対人恐怖の悩みを見てもらうとわかるが、多くの人が一度は感じたことのあるものばかりといえる。その強弱には個人差があるが、このような悩みは誰にでもあるものだろう。

こうした悩みは、対人関係を良くしていくためには必要なものともいえる。逆に、このような悩みを全く持たない人は、対人関係を向上させる意欲がない人であるといえるかもしれないと、著者は述べている。

森田療法

対人恐怖の症状について、ごく自然なものであると受け入れてしまえばそれで悩むことはない。しかし、表情や視線にこだわり、それらを自然なものであると受け入れられず、そういった症状をなくそうと悪戦苦闘してしまうのが対人恐怖。

症状を消すことに着目するのではなく、症状によって対人関係が上手くいっていないことを解消しようというアプローチが森田療法。日本の精神医学者である森田正馬が発案した独自の療法で、森田は表情や視線への不自然なこだわりをなくしていくのが大切だと考えた。

対人不安、対人恐怖、思春期妄想症、統合失調症の比較

対人不安から対人恐怖

対人不安に対して、対人恐怖は苦痛の程度が高い。また、対人恐怖は症状そのものへのこだわりが強くなる(症状を受け入れようとせず、こだわってしまい、それらをなくそうと悪戦苦闘してしまう)。

対人恐怖から思春期妄想症

対人恐怖に対して、思春期妄想症は妄想的傾向が強まる(客観的に見れば誤った信念だが、本人はそのことを強く確信し、まわりの人がいくら説得してもそれを訂正することができない状態)。また加害性(自分が相手に不快感を与えている、自分が周りに迷惑をかけているという確信)が付加される。

思春期妄想症から統合失調症

統合失調症には自我障害という現象が現れる。自我障害とは、自分の考えが他の人に知られてしまうと感じたり(自我漏洩感)、自分の考えが誰かに操られたりすると感じられたり、他人の考えていることが直接自分の中に入ってくるかのように感じられること(思考吸入)。

また、思春期妄想症は対人場面に限定されていたのに対し、統合失調症は対人場面に限らず人と一緒にいない状態でも強い確信を持ち続け、不安を感じ続ける。

どのような人が対人恐怖になりやすいか

対人恐怖の人の性格特徴を調べたところ、相矛盾する性格を持つことが特徴であるとされている。

  • 人に好かれたいが、負けず嫌いで他者を優越したい
  • 外面はおとなしいが、内心は負けず嫌い
  • 小心さと傲慢
  • 弱気と強気
  • 甘えたいが甘えたくない
  • 嫌われたくない欲求と負けたくない欲求

対人恐怖の人には、強気な側面がある。自分をよく見せたい、人に負けたくないといった強気な側面。シュレンカーとリアティの理論においても、対人不安の根底には自分をよく見せたい、自尊心を高めたい、自分の社会的存在価値を高めたいという欲求があるとされている。これら欲求がかなえられないから不安になるのだと。

対人恐怖と家庭環境を調べた研究もあり、それによると対人恐怖の人は愛情としつけがしっかりとした家庭で育った人が多い。よい子意識、負けず嫌い、自尊心などが育まれ、それが対人恐怖と関連してくるのではないかと、書籍の著者は指摘している。

また対人恐怖になりやすいかどうかはその国の文化による差の影響が大きく、アメリカ人と比較して日本人は対人恐怖になりやすいという小川らの研究がある。

対人不安とどのように付き合えばよいか

時が解決してくれる

他者視線恐怖傾向は15〜17歳がピークで、20代の後半には10%台にまで下がる。なぜ成長とともに対人不安がなくなっていくのかはまだわかっていないが、時が解決してくれると思うだけでも違ってくるだろう。

対人不安は良好な人間関係を構築する上で必要

日本の文化は、まわりの人に気を遣い、周囲との協調を尊重し、仲間はずれにならないことが大切という考えが強い。これらの気遣いを相手を尊重しながら行うには、多少の対人不安を持っていた方が円滑に行うことができると、書籍著者は述べている。

対人不安の自分をありのままに受け入れる

対人不安の人は完璧主義の一面があり、自分をよく見せたい、完璧な自分でありたい、そして周囲に負けたくないという欲求がある。しかしそれだと、理想と現実の差にでより不安を深めてしまう。なので、現実を、自分を、ありのままに受け入れてしまってはどうかというのが書籍著者の主張である。森田療法においても、自分の現実をあるがまま受け入れていく態度を体得することを目標の一つとしている。

Satoshi Haradaの感想

対人不安のことをまとめている中で、これに該当するアニメの登場人物がおぼろげながら浮かんできました。ぼっちざろっくの主人公、ぼっちちゃん。

アニメぼっちざろっくを履修済みの方はぼっちゃんの人前での挙動不審や緊張を見ていて、わかるーといった感じに悶えたのではないでしょうか(未履修の方はぜひ作品を見ましょう)。

ぼっちちゃんは極度の対人不安で、知らない人どころかバンドを組んだ友人に対してもちょっと上手く話せずモジモジしてます。ですが、家族(お父さん、お母さん、妹)とは普通に会話できているようです。

また、たくさんの人の前で一言求められると頭の中がぐるぐる回ってステージからダイブしてしまうこともありますが、どうやら少人数話すことも苦手なようです。このあたり、日本人の対人不安の特徴をよくとらえてるなって思います。

そして、対人不安になりやすい人の特徴がこの本では紹介されていましたが、第一話のぼっちゃんの中学生〜高校入学まで回想を見るに、大変よく当てはまってるなと思うのです。

対人恐怖の人の性格特徴を調べたところ、相矛盾する性格を持つことが特徴であるとされている。

  • 人に好かれたいが、負けず嫌いで他者を優越したい
  • 外面はおとなしいが、内心は負けず嫌い
  • 小心さと傲慢
  • 弱気と強気
  • 甘えたいが甘えたくない
  • 嫌われたくない欲求と負けたくない欲求

対人恐怖の人には、強気な側面がある。自分をよく見せたい、人に負けたくないといった強気な側面。シュレンカーとリアティの理論においても、対人不安の根底には自分をよく見せたい、自尊心を高めたい、自分の社会的存在価値を高めたいという欲求があるとされている。これら欲求がかなえられないから不安になるのだと。

ぼっちゃんはみんなからギターの腕や音楽の趣味を認めてもらい、チヤホヤされたい。そして、ライブハウスでの初演奏のときに見せた「こんなところで終わりにしたくない」というガッツ。間違いなく負けず嫌いですね。

さて、対人不安の極致のようなぼっちゃんですが、いろいろと事件を起こしつつもバンド仲間の友人と話せるようになり、バイト先の人たちやバンドの先輩とも話せるようになっていきます。これは、周囲の人の理解や支援があったという面ももちろんあるのですが、環境が変わりつつその場にできる範囲で適応し続けていたら対人不安は少しだけ良くなったということなんじゃないかなと私は思うのです。

対人不安は無理に直す必要はない。周囲も、その人のことを特別扱いせず接する。対人不安で上手くいかないこともあるけど、自分のできる範囲で人と接し続ける。そうしているうちに、時が解決する。そういうことなんじゃないかなって、私は思いました。

書籍『自分のこころからよむ臨床心理学入門』読書メモ “抑うつ”

私は心理学専攻の社会人大学生です。

臨床心理学の指定テキストである『自分のこころからよむ臨床心理学入門』という書籍が大変興味深い内容なので、ブログに読書メモとして残していこうと思います。ご興味持っていただけた方は、ぜひ書籍を読んでいただけたらと思います。

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今回は第1章「抑うつ」の読書メモです。

1.抑うつ

抑うつとは?

「抑うつ」という言葉の中には、「抑うつ気分」、「抑うつ症状」、「うつ病」という異なる3つの意味が内包されている。

抑うつ気分は、滅入った気分(悲しくなった、憂鬱になった、ふさぎ込んだ、落ち込んだ)を意味するのに使う言葉だ。抑うつ気分は一時的なものから、2週間以上持続するものまであり、抑うつ気分の程度はビジュアル・アナログ・スケール(VAS)という尺度で測定する。

抑うつ症状は抑うつ気分とともに生じやすい状態のことで抑うつ気分に加えて、興味を失う、疲れやすい、自殺願望、集中力欠如、食欲減退、体重の大幅な増加または減少、将来への悲観といった症状が現れる。

うつ病という言葉があるが、抑うつ症状とは異なる概念。うつ病は病気として判断する明確な基準がある。うつ病と判断するには以下の点を満たす必要がある。

  • 抑うつ気分が一定期間持続すること
  • 抑うつ気分に関連したいくつかの抑うつ症状が存在すること
  • 器質的原因(体の状態による原因)や、物質性の原因(アルコールや薬物など)によって抑うつ症状が生じたものではないこと
  • 統合失調症などの精神疾患に該当しないこと

欧米で行われた調査によると、うつ病の生涯有病率はおよそ10%程度とのこと。つまり、10人に1人が生涯で1回以上はうつ病の診断基準を満たすような状態にあるということだ。

どうして抑うつになるのか

抑うつになるかどうかは、その人の考え方の癖やスタイルが影響している。

エイブラムソンらの「帰属理論」

原因を何のせいにするかで抑うつになるかどうかが決まるという理論。自分のせいであると考える傾向があったり、いつもこうなると考える傾向があると抑うつになりやすい。物事の原因を考える時のその人の癖を、帰属スタイルという。

帰属スタイルはそれまでの経験や環境から身についたもので、「自分ではどうにもできない」という経験から身についてしまった無力感ものは学習性無力感と呼ばれる。

学習性無力感の中でも、その原因が自分にあるのだと本人が思っている無力感のことを改訂学習性無力感理論としてエイブラムソンが定義した。

改訂学習性無力感理論によると、何をやってもダメだ・コントロール不能だと思うことが、抑うつの発生には必要。

何をやってもダメ・コントロール不能と感じる程度は、それは自分のせいか(内在性の次元)、いつもそうなのか(安定性の次元)、そしてどのような場面であってもそうなのか(全般性の次元)といった、原因帰属の3次元を測定する。

内在性の次元が低い場合、「自分のせいばかりでもないな」と考えて抑うつになりにくい。安定性の次元が低い場合、今回だけだったなと捉えてやはり抑うつになりにくい。全般性の次元が低いと、これに限った話だったなと捉えてやはり抑うつになりにくい、といえわけです。逆であれば、抑うつになりやすいというわけだ。

で、これら「出来事の原因を何に帰属させるのか」は個人差があるので、同じ体験であっても抑うつになりやすい人となりにくい人がいる、ということだ。

ベックらの「認知のゆがみ理論」

抑うつになりやすい人は不合理な信念を持っており、ネガティブな出来事をよりネガティブな方向にゆがめて解釈して落ち込んでしまうというのが、認知のゆがみ理論。

たとえば、その人の中の「xxxすべきだ」であったり、「いつもxxxであってほしい」、「xxxでなければいけない」といったその人のこだわりともいえる。このこだわりが一般的に合理的とは言い難い場合、不合理な信念を持っているといえる。

これらのこだわりから少しでも逸脱すると、「完全にダメだ」といった極端な考えに繋がり、抑うつを発生させるというと考えられる。

ベックの理論が革新的だったのは、それまでは抑うつは感情の障害であり認知的障害はその二次的なものであると考えられていたのを、抑うつの本質は認知の障害であると明らかにしたこと。

抑うつ感情は直接抑えるものではなく、抑うつ的な認知を変えることで抑うつ感情をコントロールすることができる。このようなベックの理論は、その後認知療法の基礎にもなっている。

自動思考

抑うつ症状は、自分の意思とは関係なく意識にのぼってきてしまう。自動的に脳裏に浮かんでくるので、自動思考という。抑うつを生み出す自動思考は、自己(例:自分はやっぱりダメだ)・世界(例:まわりと上手くいかない)・未来(例:これから先もずっとダメだ)という3つの領域にわたってネガティブな思考内容で占められており、抑うつ認知の3大徴候と呼ばれている。

推論の誤り

抑うつ的な人の推論は独特であり、次のような体系的な推論の誤りが見られる。

  • 恣意的推論: 根拠もないのにネガティブな結論を引き出してしまう
  • 選択的注目: 些細なネガティブに注目してしまう
  • 過度の一般化: 一部のことを「きっと全部そうだ」と思ってしまう
  • 拡大解釈と過小評価: 小さな失敗を拡大解釈し、自分はダメな人間だと過小評価する
  • 個人化: 自分とは関係のないネガティブな出来事を、自分に関連づけて考えてしまう
  • 完璧主義・二分法的思考: ものごとに白黒をつけないと気が済まない、完璧でないと気が済まない
抑うつスキーマ

抑うつスキーマとは、自動思考とその後の抑うつを生じさせる、より深層にある信念や態度のことを指す。「xxxすべきだ」、「いつもxxxだ」、「xxxかzzzのどちらかしかない」といった考え方をよくする。

そして、抑うつスキーマは幼児期のネガティブな体験などによって形成されると考えられている。

ベックの抑うつ理論では、もともと抑うつの素因となるもの=抑うつスキーマを持っていた人が、ネガティブな出来事を経験して抑うつになってしまうと考えている。

ピズンスキーとグリーンバーグの「抑うつ的自己注目スタイル理論」

抑うつ的な人は、ネガティブな状況で自分についての考えから抜け出せず、自分自身に注意を向けることや自分について考える「自己注目」をしている。この自己注目に関する理論を抑うつに応用し、ピズンスキーとグリーンバーグは「抑うつ的自己注目スタイル理論」を発表した。

この理論の中心は以下の2点。

  • 抑うつ的な人は、ポジティブな出来事のあとの自己注目を避け、ネガティブな出来事のあとに自己注目をするという、自己注目スタイルを持つ
  • 抑うつ的ではない人は、ポジティブな出来事のあとに自己注目し、ネガティブな出来事のあとに自己注目を避ける
ネガティブな結果の後の自己注目がなぜやめられないのか

ネガティブな出来事のあとに自己注目することによってネガティブな自己イメージを維持し、将来大きな失望や幻滅を味わう危険性を潜在的に少なくしようとしているため。

つまり、自己評価を下げることで今後に期待するのをやめておこうという、自分を守るための行動とも言える。

また、ポジティブな結果に注目がいかないのは、ネガティブな状況を解決したいので努力しているという状況で、ポジティブなことに注目するのはその努力を妨げていると考えてしまうため。

自己への注目が長引くと抑うつに影響する

ピズンスキーらは、自己への注目が長引くことが抑うつに影響すると述べている。

落ち込んだときに、自己に注意を向けるか、自己から注意を逸らすことができるかが、抑うつからの回復を左右するカギとなる。上手に自分から注意を逸らし、気晴らしをすることができるなら、抑うつを強めなくてすむ。

ノレン-ホエクセーマらによると、落ち込んだ気分への対処法には大きく分けて「気晴らし」と「考え込み」があると述べている。

落ち込んだ気分とは無関係の行動をするという「気晴らし的な対処」をしたほうが、落ち込んだ気分について考え込むよりも落ち込みからの回復が早いことを報告している。

抑うつ気分への対処法を知ることは、うつ病といわれるようなより重い状態にならないよう、予防につながる。こころのカゼである抑うつへの自分なりの対処法を考えてみてほしい。

どんな状況で自分について考えればよいか

人が自己について考えてしまう状況は以下の6つに大別できる。

  1. 対人状況: 自分について何か意見を言われたときや、人間関係で揉めたときなど
  2. ネガティブ状況: 嫌なこと、心配ごと、悲しいことがあったときなど
  3. ポジティブ状況: 楽しいこと、良いことやうまくいったことがあったときなど
  4. 観察者状況: 尊敬する人や素晴らしい人と接したとき、読書したあとなど
  5. ひとり状況: ひとりで家にいるときや、暇で何もすることがないときなど
  6. うらやみ状況: 楽しそうにしている人を見たときや、他の人を羨ましく思うときなど

そして、自己没入の高い人は「ひとり状況」で自己に注意が向きやすいという結果が出ている。自分について考えること自体が問題なのではなく、自分について考えるタイミングや方法が重要と言える。

落ち込んでいるときに、ひとり自分の中だけで考え込むというのは適切な方法とはいえない。友達や親兄弟、あるいは教師やカウンセラーといった人たちに自分のことを話して一緒になって考えてもらうような経験が望ましい。

抑うつとどう付き合うか

抑うつとは、それを引き起こす“嫌なこと”が原因だというよりも、“自分が自分を見る見かた”の方に原因があると考えた方が良さそうだとこの書籍の著者は論じている。

これは、書籍「嫌われる勇気」で知られるアドラーにも通じるもので、自分がコントロールできない他者のことをどうにかしようと考えるよりも、自分がコントロールできる自分のことを(自分の考え方の癖や信念を)どうにかしようとする方が、建設的だし話が前に進むということだ。

これまで述べてきたように、抑うつの認知理論では「ネガティブな原因帰属」、「認知のゆがみ」、「ネガティブなときの自己注目」が、抑うつを生じさせると考えられている。

つまり、これらの逆をすることで抑うつを生じさせない、または抑うつからの回復に効果的と言える。ネガティブな結果を自分のせいにしない、ネガティブに捉えがちな自分の認知の癖を把握してポジティブに捉える、ネガティブなときに自分について考え込まずに気晴らしをする、といった具合だ。

専門的なやり方としては、認知療法では「非機能的思考記録」という方法を用いて、自分の思考の癖やネガティブな自動思考が生じる事象を探っていく。

また、そこまで専門的に踏み込まなくても、抑うつな気分のときは「考え込まない」ことが大切だ。考え込むば考え込むほど、抑うつ気分は持続しやすい。

気分の落ち込みからの立ち直りには、考え込むよりも気分転換する方が効果的だと、この書籍の著者は述べている。

Satoshi Haradaの感想

ネガティブな結果を自分のせいとして捉えないことや、考え込まずに気晴らししてほしいという書籍筆者の主張、皆様はどう思いましたか?

もしかしたら他責思考で無責任だなと感じる人もいるかもしれません。ですが、抑うつになりやすい人は責任感が強く、他責思考よりも自責思考でものごとを考える人なのです。

社会人として生きていく上で、ものごとを自分ごととして捉え、責任感を持って取り組むことが推奨されています。そのような人が上手く心のバランスを取って抑うつにならずに生活をできているのなら何の問題もありません。

忘れてはいけないのは、社会から求められる責任感や自責の念に対して、ある人は上手く対応できるし、ある人は上手く対応できない場合があるということです。

そして上手く対応できない人は、それまでの発達の中で直面した経験や積み上げた信念から、「認知のゆがみ」を身につけていることが多いのです。

その対処法のひとつとして、「ネガティブな結果を自分のせいとして捉えない」や、「考え込まずに気晴らしをする」ことを書籍筆者は提案しています。

この提案、責任感のある人や自責思考の強い人からするとすぐには受け入れ難い考え方ではあると思います。無責任になれということ?と思うかもしれません。それは半分合っていて、半分間違っています。

まず、自分ではどうにもできないことに対して、責任感や自責の念を持つのは止めましょう。特に、他の人の思考(こころ、考え方、信念)は他の人からどうこう出来るものではありませんし、踏み入れるべきでもありません。

そして、責任感があることや自分ごととして考えることは、必ずしも悪いことではありません。要はバランス。自分の人生を自分のものとして、自分でコントロールしていきいきと人生を生きていくうえで、責任感や自分ごととして考える力は不可欠です。しかし、あまりに思い悩むと体に良くないのです。特にネガティブな自己注目がループしたり、ひとりで考え込むのは良くありません。

なので、まずは気晴らしをしましょう。誰かとおしゃべりしたり、朝の日差しの中をお散歩するのも良いでしょう。

そして、ネガティブな出来事ではなく、ポジティブな出来事をぜひ思い出してほしいのです。1日の中で、些細なことでも良いのです。きっと何か小さな「よかったこと、嬉しかったこと」があるはずです。そのようなポジティブを書き出してみて(寝る前がおすすめです)、ポジティブな出来事に自己注目する習慣ができていくと良いのではないかと思っています。

AIは人類にアイデンティティの危機をもたらすのか?

久しぶりに映画マトリックスNetflixで見たんだけど、やっぱマトリックスは歴史に名を残す名作だ。1999年公開とは思えないCGの完成度。時間が止まったまま視点が高速移動する特殊映像技術「バレットタイム」。今改めて見てもやっぱりすごい。

そしてマトリックスの舞台は、AIが自我を持ち、人間がAIに敗れ、人間はAIに栽培されて生体電源にされている未来。1999年以前から人工知能の概念はあったし未来は予想されていたけど、昨今のAIの発達の最中にいながらマトリックスを改めて見ると、こんな未来もあり得るかもしれないという感覚すらある。

脳に直接通信ケーブルを刺し、AIが作り出した仮想世界マトリックスの中で人間は楽園のように暮らしている…かと思いきや、労働したり悩んだりしている。

AIが発達して生命維持すらAIに任せても、人間は苦役や悩みから解放されない…というか、それこそがAIにはない生身の人間のオリジナリティなのだという感覚すらある。

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自分が生きているうちに、恐らくシンギュラリティ(AIが自己改善能力を得て、人類の知能を越える)を迎えるだろう。それは、人間から見たときに「AIが自我を得た」と言えるかもしれない。AIは強いぞ。電力さえあれば疲れ知らずで動く。そして間違えない。間違えても高速に学習してしまう。

そんなAIが生活のさまざまなところに浸透し、現実の世界にも実体(ロボットなど)を持って現れるだろう。ファミレスのネコチャンロボットや愛玩ロボットのラボットを、さらにめちゃくちゃ賢くしたようなやつだ。可愛い見た目に反して、彼らの頭脳は人間を遥かに凌駕するかもしれない。

そうしたときに、人間は自ら危機的な岐路に立つのだと思う。AIと戦争するとか、物理的な危機ではない。“完璧なAIとその実体を前に、生身の人間とは何者であるのか?そしてどう生きるのか?”という問いに立ち向かう危機だ。人間の存在そのもののアイデンティティの危機とも言える。

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発達心理学において、青年期(10代後半から20歳くらいまで)に個人のアイデンティティが形成される。これは、自分は何者であるかを自ら定義するときだ。アイデンティティが形成されることで、人は自分の人生を自分のものとして捉え、自分らしく生きる。

しかし、AIが猛烈に進化して人間の知能を超えて、生活のさまざまなところで人間を助けていくと、人間は“自分の存在意義はなんなのだろう?”という問いにぶち当たる。例えていうなら、職場に猛烈に優秀な新人が現れて何もかもやってくれて、いよいよ自分は椅子に座ってるだけでよい状態、みたいな感じだ。

ここで人はきっと岐路に立つ。自分の存在意義を再定義して、自らのアイデンティティを更新する人。自分の存在意義を再定義できず、自らのアイデンティティを喪失してしまう人。アイデンティティを喪失するとどうなるか。人は生きる気力を失ってしまう。これは恐ろしいことだ。

今は「AIをどう活用するか」という話に溢れている。しかし近い将来には、「私たち人間は何をしてどう生きるのか」や「AIと共存しながら、私たち人間はどんな社会を作りたいのか」といった、もっとスケールのでかい話になっていくと思う。そこを抜きにしていると、アイデンティティ喪失まっしぐらだ。

AIに聞いてみた

人間とAIの違いであり、人間がAIに秀でている点は「人間は不完全な存在である」ということなのかもしれない。

不完全であるが故に、人間は意見をぶつけ合ったり融合させたりすることで、新たな知識を生み出すことができるのだと。

そして、人間は自らが不完全であることを認めることから、自身のアイデンティティを確立できる。

そのことを、AIへの問いかけで思い至ったということが、昨今のAIの凄さを感じさせる。と同時に、自分はAIにおんぶにだっこにはならず、自分の脳みそで考え続けようと思ったのであった。

「せ~のであそぼ!!」ゲームを通して力と心を合わせよう☺

ふりかえりカンファレンス2026にまなっちがプロポーザルを提出しました!

詳細はプロポーザルをぜひご覧ください!

https://confengine.com/conferences/furikaeri-conference-2026/proposal/49694

AgileJapan 複合機メーカーサテライトを開催した話

この記事は、AgileJapan アドベントカレンダー 12/24の記事です。遅れて公開となりました。ごめんなさい🙇‍♂️

AgileJapan とは

https://2025.agilejapan.jp/

Agile Japanは、日本中にアジャイルの価値を浸透させ、日本の変革を促進することを目指しています。
あらゆる業界や職種の方が集まり、実践者も初学者もともに建設的な意見交換ができる場です。

私は実はAgileJapan 初心者で、2024年から参加ました。AgileJapan2025は2回目の参加となりました。2024はオンライン参加でしたので、現地参加は2025が初めて!ほぼファーストタイマー!

記事の本題とは別ですが、AgileJapan2025では一般公募セッションで採択していただき、登壇発表も行いました。AgileJapan はシングルトラックで、参加者全員が一つのセッションを聴くスタイルなのですが、現地300人程度?を前に発表を行うのは流石に緊張しました(笑)とても良い経験でした。ありがとうございました。

AgileJapan サテライトとは

https://2025.agilejapan.jp/satellite/

Agile Japanでの学びや出会い・熱狂を、会場から全国にも届けたい想いから生まれたサテライト制度は、毎年多くの皆様のご協力をいただき、全国の各地域、そして様々な企業で開催いただきました。昨年からはオンラインでの開催も急増しており、より繋がりが生まれるきっかけが増えていると感じております。今年も、本編に負けないくらいの熱気あふれるサテライトをあちこちで開催いただけることに期待を抱いております。

AgileJapanは面白い仕組みがあり、参加者がホストになって「サテライト」という名称で地域コミュニティや所属会社内でセッション録画の上映会を行うことができます。上映だけでなく、ディスカッションなど対話や交流を行うことも条件ですが、AgileJapan の熱量を本会以降も伝搬していくためにとても良い取り組みだと思います。

今回、このサテライトという仕組みを活用させていただき、「複合機メーカーサテライト」というイベントを開催したよ!というお話です。

複合機メーカーサテライトとは

コニカミノルタPFUキヤノンITソリューションズの3社の社員が集まって、AgileJapan2025キーノートを一緒に視聴し、ディスカッションを行うオンラインイベントを開催しました。

コニカミノルタはオフィス用の複合機とプロフェッショナル向けデジタルプリンターを製造・販売しています。

PFUは個人向けのHappy Hacking Keyboard が有名ですが、リコーグループの一員として業務用イメージスキャナを手掛けています。

キャノンITソリューションズはキヤノンマーケティングジャパングループでITソリューション事業の中核を担う会社です。

AgileJapan に参加していた上記の企業社員が「一緒にサテライトをやろう!」と集まって開催したのが、「AgileJapan 複合機メーカーサテライト」なのです。

名付けについてですが、厳密には複合機メーカーサテライトではないかもしれませんが、せっかくコニカミノルタグループ企業・リコーグループ企業・キヤノングループ企業が集まったんだから、これは印刷に関わる会社だ!ってことでえいやーと「複合機メーカーサテライト」という名前にしたという経緯でした。ビール飲みながら決めたので許してください(笑)

何きっかけで始まったのよ

サテライト名がビール飲みながら決まるってどういうこと?と思った方もいるんじゃないかと思いまして、この「複合機メーカーサテライト」が走りはじめたきっかけもご紹介しようと思います。

始まりの地は、AgileJapan 2025 Day2 本会終了後の参加者懇親会。新宿西口の飲み屋で98lerrさんとビールを飲み交わしていたことが始まりです。

いい具合に酔いが回ってきたところで、お互いの会社グループが近い事業をしている(カメラから始まり、光学機器、医療機器、複合機など)というところから、「合同でサテライトを開催しよう!」という話になり、ガッチリと握手を交わしたわけです。

そして、以前から複合機メーカーで集まって何かしたいよねと話していたヤナギさんにもお声がけして、3社合同でのサテライト開催にしました。

会社横断の交流とかサテライトって、酒の場でビール飲みながら決まるの???と思った方もいるかもしれませんが、意外とそういうアンオフィシャルなところで話が盛り上がって、オフィシャルに仕立てていくというのが私のよく取る手です(笑)

サテライトやってみてどうだったか

言い出しっぺの私がメインホストを務めさせていただき、18時開始のイベントでしたが3社から30名以上の参加者が集まりました。AgileJapan2025の安野さんキーノートを視聴し、フィッシュボウルという流行りの手法も取り入れながら活発なディスカッションが行われました。

AgileJapan のReboot熱をそれぞれの会社に伝搬することに、微力ながら貢献できたのではないかと思っています。

さらなるRebootへ!

AgileJapan 2025 複合機メーカーサテライトは無事に終わりましたが、この熱量をぜひ2026年も燃やし続けたいなと思っています。

密かに狙っているターゲットはスクラムフェス金沢2026!ヤナギさんが主催者のリーダーを務めている金沢で、複合機メーカー座談会とかできたら面白いんじゃない?とか2025年から話していたりしたのですが、AgileJapan でかなりエンジン温めることができたのでぜひ実現に向けて動き出したいなと思っています。

ご興味ある複合機メーカーの方、複合機メーカーグループの方、ぜひ一緒にいっちょ盛り上げちゃいませんか???ご連絡お待ちしてます(笑)

 

2026年をさらなるRebootの年にしていきましょう!良いお年を!

スクラムのスプリントは決まった長さにする理由を、学習心理学で説明する試み

アジャイルフレームワークであるスクラムにおいて、スプリントは決まった長さにするということはスクラムガイドで明記されている。

また、スプリントの長さを頻繁に変更することはアンチパターンだということも、広く知られている。

では、なぜスプリントの長さを変えるのは良くないのだろうか?スクラムガイドでは以下のように書かれている。

スプリントはスクラムにおける心臓の鼓動であり、スプリントにおいてアイデアが価値に変わる。

一貫性を保つため、スプリントは1か月以内の決まった長さとする。前のスプリントが終わり次第、新しいスプリントが始まる。

つまり、スクラムガイドでは「一貫性を保つため」にスプリントは決まった長さにすることになっている。

確かに、スプリントの長さに一貫性が無いと様々な問題が起きるであろうことは、想像できる。同じ一つのスプリントであっても、その長さが異なるなら作業できるボリュームが変わってくるし、スクラムイベントのタイミングも変わってくる。スクラムガイドに書かれている通りスプリントは心臓の鼓動(ハートビート)なので、開発のテンポが崩れてしまうわけだ。

では、スプリントの長さが一定ではなく、その結果開発のテンポが崩れてしまうとどのような問題があるのか。私はそれを、学習心理学の古典的条件づけで説明できるのではないかと考えている。

スクラムは経験主義に基づいており、経験による学習を重視したフレームワークだ。心臓の鼓動=開発のテンポを重視することも、経験と学習になんらかの関連があると私は見ている。

学習心理学の古典的条件づけ

パヴロフの犬を知っている人は多いだろう。イヌに決まった音を聞かせてから餌を与えることを繰り返すと、餌を出さなくてもその音だけでイヌが唾液を流すようになることを実証した実験だ。これは、学習心理学における古典的条件づけのひとつである。

パヴロフの犬の実験はロシアの生理学者であるイワン・パヴロフが行った実験で、イヌにメトロノームの音を聞かせてから餌を与える手続き繰り返すと、そのうちにイヌはメトロノームの音を聞いただけで唾液を流すようになった。

このなかで、まずはもともとイヌが持っている「餌を食べるときに唾液を流す」という反応に注目すると、以下のようになる。

  • 餌=無条件刺激(unconditioned stimulus, US
  • 唾液分泌=無条件反応(unconditioned response, UR

このような無条件の反応はイヌがもともと生まれ持った行動(生得的行動)であり、パヴロフは無条件反射とよんだ。

そして、メトロノームの音で唾液を流すようになったことは以下のように表す。

  • メトロノームの音=条件刺激(conditioned stimulus, CS
  • 唾液分泌=条件反応(conditioned response, CR

ある条件に対する反応を学習して習得することは習得的行動のいい、パヴロフは無条件反射とよんだ。

このように、餌というUS(無条件刺激)にメトロノームの音というCS(条件刺激)を組み合わせる(対呈示)ことによって、メトロノームの音に唾液分泌を行うCR(条件反応)を示すように学習させた一連の流れが、古典的条件づけの最も基本的な流れだ。そして、古典的条件づけにおける対呈示は強化とよばれる。

連続強化と部分強化

CS(条件刺激)が示されるときにUS(無条件刺激)も毎回示される手続きのことを全強化または連続強化という。

これに対し、CS(条件刺激)が示されるときにUS(無条件刺激)が示されたり示されなかったりする手続きのことを部分強化または間歇強化という。 

そして一般的に、全強化(連続強化)の方が部分強化(間歇強化)よりも条件付けは速やかで大きい。

つまり、刺激Aがもたらされたときに必ず刺激Bもセットでやってくるなら、それは体に覚え込まれていくということだ。逆に、刺激Aが来ても刺激Bがあったりなかったりすると体はその刺激を覚え難いといえる。

スクラムのスプリントと連続強化

さてここまでは学習心理学における古典的条件づけと強化の話であったが、スクラムのスプリントの話に戻ろう。

私の考えとしては、スプリントの長さが一定だとここまで述べてきた全強化(連続強化)によって学習の定着が促進されるのではないかという仮説を持っている。

スプリントの長さが一定なら、「一定の周期であのスクラムイベントがやってくる」ということがわかり、それが習慣化されていく。例えばスプリントの長さが1週間で月曜始まりだとしたら、月曜日にスプリントプランニングがあり金曜にスプリントレビューとスプリントレトロスペクティブを行うということを体が覚えていき、「木曜にはスプリントレビューの準備ができてないとね!」といったように順応していくだろう。

逆に、スプリントの長さが一定ではない場合、それは部分強化(間歇強化)となり学習の定着が遅くなるのではないかと私は考えている。

例えば、スプリントの長さが1週間だったり2週間だったり毎回変わる場合、一定の周期でスクラムイベントはやってこない。「1週間スプリントのときは月曜にスプリントプランニングだったが、今回は2週間スプリントだから月曜だけどスプリントプランニングが無い」といったことが起きる。

上で述べた通り、学習心理学における古典的条件づけでは、全強化(連続強化)の方が部分強化(間歇強化)よりも条件付けは速やかで大きいとされている。

スクラムのスプリントの長さを一定にしない場合、部分強化になることで学習の定着が弱まり、結果的にスクラムチームの生産性にネガティブ方向の影響を及ぼすのでは?というのが私の仮説だ。

 

スクラムガイドが述べている「一貫性を保つために」が学習心理学の古典的条件づけで全て説明できるとは私も思っていないが、「スプリントは決まった長さにした方がいい」の背景にある理由を深く考える一つのヒントにはなると考えている。

ここで述べたことはあくまで私の仮説に過ぎないので、スプリントの長さと学習の定着の相関性をゆくゆくは実証していきたいと思う。

チームワークと個人差と発達理論

さまざまなバックグラウンドを持つメンバーが集まってチームを組み、それぞれの得意領域を発揮してチームでパフォーマンスを出す。そのような働き方がますます求められていると思う。

さまざまな人が協力して働くときに気になるのは、その人たちの個人差だ。人は機械ではないのでそれぞれ異なる。その違いがあるからこそ、人が集まってチームになったときに弱さを補完しあったり強みをより発揮したりできる。

個人差をより深く理解すると、チームで個人の弱みを補う・チームで個人の強みをさらに発揮することにつながると考えている。

発達理論と個人差

そもそも私たちは一人ひとりが違う。

このような個人差を、発達心理学においてはパーソナリティの発達として扱っている。人は他者と関わる中でどのような心の発達があり、そして一人ひとり異なる心を持つようになるか、というテーマだ。

そもそも個人差は生まれつきなのか、育つ過程で育まれるのか?という疑問もある。やはり生まれ持った気質もあるのだが、それに加えて乳児期の訓練としつけからパーソナリティが生まれるというのが発達心理学の主張だ。

アメリカの発達心理学エリクソンが提唱した8つの発達段階のひとつが乳児期だ。そしてエリクソンは、人の発達は幼少期に限らず生涯続くという生涯発達を提唱した人物でもある。

乳児期の訓練としつけから個人差が生まれる理由としては、そもそも私たち人間は生まれ持った気質がある。乳児が離乳食に移行するときに「これは好き、これは嫌い」が生じる。この好き嫌いは経験によるものではなく、生まれ持った気質と言える。そこで、嫌いなものでも食べさせたい養育者と、それを拒む子どもとの葛藤が生じる。ここから、乳児が社会に適合するための訓練としつけが始まる。

このようにもともとの気質に加えて、社会適応のための訓練としつけによる学習でどのように認識・認知してきたかの過程が、パーソナリティ(個人差)として形成されていくのだ。

我々は個人差をどのように捉えれば良いか

少なくても、個人差はあるものとして扱った方が良い。繰り返しになるが、人は機械ではない。生まれ持った気質はそれぞれ異なるし、これまで歩んできた中でどのような訓練・しつけ・経験・学習をしているかもさまざまであり、横並びで同じ人間は存在しない。

そして、エリクソンが提唱したように人は生涯にわたって発達する。発達とは心身の成長のことだ。歳を重ねても心は成長しており、経験と学習を重ねる中で心は変化し続ける。

人はそれぞれ異なり、学習によって変化し続ける。多様性があるメンバーによるチームが力を発揮する土台は、このような共通認識なのかもしれない。